みちのそらじ

 迷い込んだ森の中で、きのこの輪っかをみつけたんです。世にも珍しい、ムラサキテングタケのフェアリーリング。

気をつけて。 フェアリーリングの中に入ったら、 夢の中に永遠に閉じ込められるんですって。 

だけど、 まるくならんだきのこたちがあんまり楽しげなものだから、私ときたらつい、

輪の中に足を踏み入れてしまったのです。

その輪の中には、ありとあらゆる生き物が住んでいました。

鳥も獣も虫たちも、木や草やたくさんの花々も、きのこもおさかなも、いつか読んだお話に出てきた不思議な生き物も。

まんなかには全てのいのちを抱え込む、 大きなたまごもありました。

なんて安心、 なんてうれしい、 なんて気持ちの良い場所。

そこでは、私もありとあらゆる生き物のうちのひとつでしか

ないのでした。 私はその輪の中で、 気ままに踊り、眠り、歌い、

どれだけの時間をすごしたのでしょうか。 たまごにもたれてまどろみからふとめざめたとき、 思ったのです。 「おなかすいた!

こうしてはいられません。 はやく家に帰って、 なにかおいしいものを食べなくちゃ。 その一心でひたすらはしったら、いつのまにか森をぬけて、よく知った道に出ていました。



いつだって、道の途中で迷っては、行き着く先を見失う。

それでも道はつづくから、ひとやすみしたらまた、あるいてゆきましょう。


〜道の空路=物事の途中〜

「みちのそらじ」に寄せて     高橋理子



『ねむるゆめからめざめるゆめをみるゆめ』F8×2枚   高橋理子

ねむりつづけている。
夢からめざめるたびに、季節はうつり、木は形を変え、きのこはあらわれては消える。

めざめても、めざめても、眠っていました。
眠っても、眠っても、時は積み重なりました。

幸せにねむり、ねむりながらめざめ、いつの日かの光を思う。
その先のめざめをしらないまま。

2枚の連作用の木の額縁は、作ってもらった時よりも濃い色目に変わり、より絵と一体化してきました。

『明るい夜の鏡』50cm×50cm  

夜は鏡。
夜は明るい。
うつりこむもの。
それは夜なのか木なのか。
それは夜なのか鳥なのか。
それは夜なのかそれとも。
実体であり影であり、かなたへの光でもあり。
輪郭をなぞる小さなものたちだけが、
たしかに、ゆくさきを承知している。
のぼるのであれ、おりるのであれ。
進むのであれ、戻るのであれ。

『明霧 』めいむ     F30   高橋理子
明るい霧あるいは迷う夢。
夜の終わり。
足元から朝になっていくような、霧の明るさ。
道といい森といい空といい、すべてが混ざり合い溶け合う。
ゆめもうつつもそのあわいも、
なにもかもが境目をなくすそのとき、
たったひとつのたしかな命が、ここに羽を休めた。
いのちの糸をつなぐものとの対話は、微かな空気の震えとなって森の宝石に光を与える。

迷いと気づきと光と。
そんな絵です。
売約済

『道の空』F30    髙橋理子

生きる道はいつでも、途中である。
はじまりとおわりの間には、常に途中がある。
過去と未来を含む今。その心細さと心強さ。
途中であることの不安と希望を、はじめからさいごまで、自らの手で携えて歩く。
あとにしてきたものに支えられ、さきにあるものに光を見る。
道の空という言葉について、このようなことを思い、思い、この絵を描いてから、時が経ちました。描いている時には思いもしなかった遠いところに、来た気がします。だけどこの絵を前に気づかされるのは、なんてことはない、今こそが、途中なのだ、ということ。いつでも、道の空なのでした。

1月の個展作品より

『夕かげの刻み』50cm×50cm  高橋理子

ゆうがたと、夜の境いめのこと。
ひとところで夕日をじいっと見ていても
ついぞみつけられず、いつのまにか、夜の闇にのみこまれている。
角切りの、夕焼けの光と夜の空気はそこにもここにも。
ここ、ここ、ここに届いて互いにふれあいかさなりあい、音を立てる。
音を立てる色の中で、めざめたものの視線。
帰るのか、出てゆくのか、
伸びゆくのか、枯れゆくのか、
それは、不問です。